「空」の講義 〜オーディオ・ショップの店頭で〜


(月刊『在家仏教』2014年11月号掲載)

二十年ほど昔のことである。それまで使っていた小型のCDプレーヤーが故障してしまい、新しいものを購入しようと思い立った。それよりも少し前、学生達の間で、高性能のオーディオ製品を購入するのが一種のブームになっていた。そんな中で、小さな機種を使い続けていた私は、今度こそは少々性能の良いものを購入したい。そんな思いでオーディオ製品の専門店を訪れた。

店に入り、並んでいる幾つもの製品を見比べてみたが、素人には違いがわからない。すると、その様子を見ていた店の主人が、「オーディオ製品は、見ているだけでは意味がない。音を聴き比べることが大切だ」と声をかけてくれた。ただ、そうは言われても、繊細な音の違いを私が聞き取れるとは到底思えない。躊躇していると、「まあ、とにかく聴いてみろ」ということで、主人がプレーヤーに一枚のCDをセットして、曲を流してくれた。ところが、イントロの部分が終わり、いよいよ歌詞が始まろうという時に、主人はその曲の演奏を止めてしまった。不思議に思って見ていると、その同じCDを別のプレーヤーにセットして、同じ曲をかけてくれる。そして、イントロが終わる頃になると、またもやCDを取り出して、それを三台目にセットした。

わけがわからないまま、同じ曲のイントロを三回聞かされたところで、主人が「わかったか」と尋ねてきた。私には、何がなんだかさっぱりわからない。怪訝な顔で主人を見返すと、主人は再び最初のプレーヤーに同じCDをセットして、同じ曲を流し始めた。そんなことを何度も繰り返し、三十分ほどもたった頃だろうか。突然、わかった。一台目は柔らかな音を響かせ、二台目は固い音、三台目はくぐもった音を鳴らしている。そのことを主人に伝えると、主人は満足そうな顔をして、そのCDを四台目の新しいプレーヤーにセットした。そこから流れてくる音は、先ほどまでのものとは異なり、実に深みのある味わいがある。音の違いを聞き分けることができたと喜んでいると、主人がそれぞれの機種の価格を教えてくれた。最初の三台はいずれも十五万円前後、四台目のそれは三十万円以上もするという。四台目は言うに及ばず、他の三台も予算を超えている。十万円以内の商品はないのかと尋ねると、主人は五台目のプレーヤーにCDをセットしてくれた。しかし、音の違いを聞き取れるようになった私には、その音は安物のおもちゃのようにしか聞こえない。思い切って、十五万円の製品を買うことにした。

しかし、ここで大問題が発生した。十五万円の三台の中から、どれを選べばよいのだろうか。私は、「CDに録音された瞬間の本当の音を、できるだけ忠実に再現してくれる機種はどれなのか」と主人に尋ねた。すると、主人は「それはわからない」と言って笑った。私は、再びわけがわからなくなった。きょとんとしていると、主人は「プレーヤーやスピーカーを使わずに、CDに録音されている音を聞くことはできない」と言った。CDに記録されているのは単なる電気信号であり、それを私達が音として聞くためには、プレーヤー等を使用しなければならない。つまり、オーディオ製品から流れてくる音は、それぞれのプレーヤー等の機械によって生み出されたものである。そうだとすると、CDに録音された瞬間の本当の音が、永遠に変わることなく存在し続けるということはありえない。それは、私達がイメージの中で生み出した幻にすぎないのだ。では、改めてどの製品を選べばよいのだろうか。再び主人に尋ねると、「あなたの気に入った音を鳴らしてくれる機種こそが、あなたにとっての本当の音を奏でる機種だと思えばいい」と言って笑った。

 色即是空、空即是色。「空」の思想は、あらゆるものの中に、永遠に変わることのない絶対的なものは存在しないことを説く。「色即是空」の「色」はあらゆるものを指し、「空」はそこに絶対的なものがないことを表している。そして、その理由は、あらゆるものが様々な原因や条件によって生み出されたものであり、その原因や条件も、時々刻々変化してやまないことにある。それ故に、変化を止めることのないあらゆるもの、すなわち「空」なるものの、いま、この瞬間の姿こそが「空即是色」の「色」、すなわち本当の姿なのである。

私達は、しばしば今の自分は本当の自分ではないと言って、自らの現状から目を背けようとする。しかし、現実の自分をおいて、あるべき本当の自分などは存在しない。あるのはただ、常に変化し続ける環境の中で、いま、この瞬間を生きている現実の自分だけである。そして、それこそが「本当」の自分にほかならない。それはちょうど、CDに閉じ込められている電気信号は、実際に私達が聞くことのできる永遠の音ではなく、スピーカーから流れてくる現実の音こそが、「本当」の音にほかならないのと同じである。

どうやら、私はオーディオ・ショップの主人から、「空」の思想の講義を受けていたようだ。もちろん、学問的な正確さには欠けるけれども、この際、その点には目をつぶろう。当時の私には高価だった製品の代金も、講義料だと思えば安いものだったのかもしれない。その時に購入した製品は、今も我が家で「本当」の音を奏で続けている。